公的な教義解釈がどうなのかはともかく、カトリックや正教会では、聖母マリアや聖人に対する崇敬(たぶん一般末端信者にとっては信仰)があるので、本当の意味の一神教ではないような気がする。まっとうな信者の人は怒るかもしれないが・・・
プロテスタント(幅が広すぎるが)やイスラム教は、確かに一神教的に思える。しかし、やっぱり一般信者は、形而上的な神なんかより、目の前の牧師とか指導者こそが頼るべき存在であって、神ではなく「人間」に陶酔しているのではないか? 「人間」に陶酔しない人もいるだろうが、そういう人は聖書やコーランなどの「書物」に陶酔している気がする。だからこそプロテスタントやイスラム教徒は、過激な行動をとりがちなのだと個人的に思っている(これも信者の人は怒るだろうな)。
本当に唯一神を信仰するためには、かなりきつい精神の訓練が必要な気がする。ほとんどの人間は、一生正しい信仰なんて持てないのではないだろうか? 単に私が呪われているだけだという気もするが。
日本の場合、いわゆるカルト系の宗教団体に属している人たちは、「指導者」や「書物」に陶酔しているように見える。それ以外の一般的日本人は、坊主や神主だって普通の「人間」であるということを承知しているし、お経や祝詞を読んで理解すること自体が普通は困難だから、「書物」に陶酔することもできないはずだ。だからこそ日本社会の安定性がある(あった)のではないか?
もっとも最近は、いわゆる「宗教」とは直接関係ない原理主義者(市場原理主義者、健康原理主義者等)が増えているから困ったもんだ。これも仏罰かな・・・
プロテスタント(幅が広すぎるが)やイスラム教は、確かに一神教的に思える。しかし、やっぱり一般信者は、形而上的な神なんかより、目の前の牧師とか指導者こそが頼るべき存在であって、神ではなく「人間」に陶酔しているのではないか? 「人間」に陶酔しない人もいるだろうが、そういう人は聖書やコーランなどの「書物」に陶酔している気がする。だからこそプロテスタントやイスラム教徒は、過激な行動をとりがちなのだと個人的に思っている(これも信者の人は怒るだろうな)。
本当に唯一神を信仰するためには、かなりきつい精神の訓練が必要な気がする。ほとんどの人間は、一生正しい信仰なんて持てないのではないだろうか? 単に私が呪われているだけだという気もするが。
日本の場合、いわゆるカルト系の宗教団体に属している人たちは、「指導者」や「書物」に陶酔しているように見える。それ以外の一般的日本人は、坊主や神主だって普通の「人間」であるということを承知しているし、お経や祝詞を読んで理解すること自体が普通は困難だから、「書物」に陶酔することもできないはずだ。だからこそ日本社会の安定性がある(あった)のではないか?
もっとも最近は、いわゆる「宗教」とは直接関係ない原理主義者(市場原理主義者、健康原理主義者等)が増えているから困ったもんだ。これも仏罰かな・・・