究極の傍観者

歴史、文学、宗教など人文科学系情報を中心にしようとは思っていますが、それ以外のことも書きます。人間のすることはみんなどっかでつながっていますから。記事内容に関するコメントやトラックバックはご自由にどうぞ。

バス

山谷橋とグレラン製薬前

東急バスと国立第二病院の話の記事で書き漏らしたこと。

「国立第二病院」が「東京医療センター」に変わったので、バス停名も今では「東京医療センター前」だ。当たり前だ。変更しなければ乗客は混乱していまう。世田谷区内には「国立大蔵病院」から「国立成育医療研究センター病院」という例もあり、バス停名も追随している。しかしどちらもややこしい名前だ、いいじゃないか昔のままで・・・

病院名が変わった場合は影響が大きいからバス停名も変えざるを得ないが、影響があまりなければバス停名は昔のまんまという場合も多い。たとえば世田谷区桜新町二丁目にある「山谷橋」というバス停(実は一番もよりのバス停だw)の由来なんて一部の原住民以外わからないだろう。私も本当の由来は知らないのだが、子供のころ、ここらへんを川が通っていたことはちゃんと覚えている。いや、今だって暗渠として道路の下をちゃんと流れているのだが、下手すりゃこのことを知らずに近くに住んでいるやつもいるんだろう。もちろん今は橋などないが、他に適切な名前をつけようもないので(「エーエムピーエム前」とかいうわけにはいかないだろうしw)、「山谷橋」というバス停名は当分残るだろう。

同じ桜新町二丁目には、つい最近まで「グレラン製薬前」というバス停も存在していた。今年の4月1日にとうとう「桜新町二丁目」と改名したそうだ。このバス停名の由来は単純明快で、昔この場所にグレラン製薬の工場があったのだ。かつて地元の子どもたちの間(いやおばさんたちもかw)では、「グレラン製薬から流れ出る下水の中に奇形の金魚が泳いでいるのを見つけた」だの、「モルモットの死体をたくさんつめたゴミ袋を見た」だの、根も葉も無い噂がささやかれていたのだがw この工場の跡地も相当前にマンションになっており、今では地元の噂なんてまるっきり知らない住人も多く住んでいることだろう。というか、このあたりは今でも準工業地域だということを知らない人もいるのかも・・・

あ〜あ、本当に年とったよな・・・

ミニ散歩:東急バス恵32系統と用賀近辺散策

恵比寿で雑用を済ませた後、ふと東急「恵比寿32系統」用賀行きのバスのことを思い出した。ちょうどバス停に停車していたので乗り込んだ。

駒沢通りや用賀中町通りのことはよく知っているが(なにせ世田谷に40年以上住んでいて、オヤジもオフクロも世田谷生まれだからw)、このバスははじめて。けっこう混んでいる。夜だからみんな帰宅客のようだが、昼間には東京医療センターに通院したりお見舞いのために利用する客も多いんじゃないだろうか?

私にとって「東京医療センター」はいまだに「国立第二病院」だ。小学生のころ(新玉川線が開通していないころ)、桜新町からバスにのって入院中の母方の祖母の見舞いになんどもいった。そのときのバスは東急「恵比寿33(恵33)系統」だったと思うのだが、証拠がない・・・いくら検索しても自分がかつて書いた記事しか見つからないw なにせ新玉川線開通以前のバス情報だから仕方ないんだけどね・・・ そうそう私はいまだに「新玉川線」が「田園都市線」と名を変えたことを認めていない。「田園都市線」とは大井町と溝の口を結ぶ鉄道のことである。すくなくとも私の小学校時代はそうだったのだ!

そんなわけでバスで終点まで。用賀駅は久しぶりだ。もちろん電車は使わず家まで歩く。途中、小学生時代に愛用していた駄菓子屋がまだ健在だと気づく。ありがたいことに写真を載せているブログ記事が見つかったのでご紹介。ほんとに35年以上前と変わっていないw

この駄菓子屋のすぐちかくに、「エピタフ」というロックバーを発見。話には聞いていたのだが、まさかこんなところにあるなんて。もちろん35年前にはこんな店は存在していなかった。が、どうも35年前に流行っていた音楽中心の店らしいw 今度訪ねてみよう。

「エピタフ」から桜新町駅なら10分程度。用賀はビルのおかげでだいぶ変わってしまったが、桜新町の商店街はほとんど変わっていない。もちろん店自体はいろいろ入れ替わっているが・・・ 私は原住民だから、昔の八百屋が今はあれ、昔の乾物屋が今のこれ、とか知ってるんだけど、知らずに桜新町に住んでいる人も多いんだろうな・・・

桜新町のバス(昭和50年前後)

世の中にはバスマニアと呼ばれる人たちがいる。その人たちのおかげで、Web上には既に廃止になったバスに関する情報も多い。その情報を利用してバスの思い出を整理してみた。

小学生のとき、初めて一人で乗ったバスは、東急の目黒05系統(黒05)である。なお以下みな東急バスなので会社名は省略する。成城学園前と目黒間を世田谷の奇奇怪怪な道を使って結んでいた。自宅の桜新町も経由していた。今は都立大学駅が終点となり「都立01系統」と名称も変更になっている。だが一応健在だ。なくすわけには行かないバスだろう。

小学生の間は、まだ新玉川線(今の田園都市線)は開通していなかったため、渋谷や三軒茶屋に行くのにもバスしか手段が無かった。だから246の旧道(桜新町駅がある通り)を、かなり多くの渋谷行きバスが走っていた。渋谷02,03,04 系統(渋02、渋03、渋04)だ。それぞれ、用賀、二子玉川、溝の口から渋谷を目指していた。これもちゃんと資料が残っている。東急バス研究室というページだ。作者に感謝。

桜新町と恵比寿を結ぶ恵比寿33系統(恵33)というバスもあった。これは246を真中交差点で国立第二病院(今の東京医療センター)を通り、駒沢通りを恵比寿へ向かうバスだった。記憶違いもあるだろうが、少なくとも「桜新町から国立第二病院へ乗り換え無しで行かれるバス」が存在したことは確実だ。なぜなら当時母方の祖母がガンでそこに入院しており、私はしょっちゅう一人でお見舞いに行っていたから。たしか「恵33」だったと思うんだけど。

同じく桜新町発の渋谷73系統(渋73)というバスもあった。桜新町〜目黒間は黒05系統と同じルートで、その先は恵比寿経由で渋谷まで通じていた。中学生のとき(新玉川線は既に開通していた)、渋谷からの帰りにわざわざこのバスを使ったことが何回かある。のんびり本を読むには最高だったから。
記事検索
Archives
Recent Comments
livedoor プロフィール

t2001t2001

 
 
  • ライブドアブログ