究極の傍観者

歴史、文学、宗教など人文科学系情報を中心にしようとは思っていますが、それ以外のことも書きます。人間のすることはみんなどっかでつながっていますから。記事内容に関するコメントやトラックバックはご自由にどうぞ。

神保町

神保町物語7

神保町物語6の続き。

秋葉原物語でも書いたが、1991年に大阪に引っ越した。

近鉄や大阪市営地下鉄の「日本橋」駅付近には大きめな古本屋が数軒ならんでおり、たびたび出入りした。「秋葉原」と「神保町」以上に、大阪では電気街と古書街は近い。というか、電気街の中にも何軒か古書店がある。明治期には全体が古書の街だったらしい。

旧大阪球場にも古書店が多く集まっていた。天王寺駅付近にも面白い古本屋があった気がする。距離的に近いので、自転車であちこち見て回った。

市内北部の梅田近辺にはあまり出没しなかったが、「阪急古書のまち」は好きだった。隣の「かっぱ横丁」の雰囲気のせいかも。

神保町に話を戻す。大阪在住中、東京へは数ヶ月から半年に一回の割合で仕事で出張したり、実家に帰ったりしていた。東京へ戻っても、実家には立ち寄らないことが多かったが、神保町や秋葉原には足を運んでいた。神保町や秋葉原こそが私にとっての「ふるさと」なのだろう。

神保町物語6

神保町物語5の続き。

一浪して大学に入学した。親にパソコンを買ってもらった。PC9801VM2である。今からちょうど二十五年前の話だ。

とりあえず、BASICを覚えて、ASCIIに載っているソースコードを打ち込んでゲームしたりしたが、やはり市販ソフトも欲しかった。

もちろん秋葉原にソフトはいっぱい売っていたし、前にも書いた渋谷道玄坂のJ&Pも冷やかした。TAKERUも使った。ただ、当時ゲームソフトは一万円以上するものが多く、そう簡単に買える物ではなかった。なお、ビジネスソフトはさらに高かった。一太郎3がわざとコピープロテクトをかけないことにより、シェアを独占しようとしていたころだ。

そういう時代だったので、「パソコンソフトレンタル屋」というものが存在していた。ただ、すでに社会問題化していたらしく、1985年当時には秋葉原や渋谷で堂々と営業してはいなかったと思う。そしてなぜか神保町に、私の知る限りでは二軒ほど営業していたのである。もっとあったかもしれない。もちろん現在は存在しない。

二軒とも白山通り沿いだったと思う。一軒は「利根そば」の近くだったはずだ。レンタル料は一泊二日で定価の一割程度だった。いくら当時のゲームが単純だったとはいえ、一晩で遊び終わるほどではない。みんな当然のようにコピーしていたのである。レンタル屋にはコピーツール用ファイラーも用意してあった。ファイラー自体もレンタルできる店と、ファイラーだけは買い取らなくてはいけない店とがあった気がする。

そんなわけで「秋葉原」と「神保町」は私の中で結びついた。どちらも趣味の街だし、伝統と新しい文化が共存している街だ。でければ末永く繁栄してもらいたいものだ。

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神保町物語5

神保町物語4の続き。

交通事情も書いておこう。今でこそ自宅(世田谷区桜新町)から地下鉄一本で神保町に出られるが、高校〜浪人時代には半蔵門線は「半蔵門」までしか開通していなかった。

そのため、自宅から直接神保町に行くときには、地下鉄千代田線で新御茶ノ水までいってから界隈を散歩することが多かった。高校や予備校の帰りに行くときには国電(まだ国鉄時代なので)で、水道橋や御茶ノ水駅を利用していた。

帰りはそれらの電車を利用するか、都バス(渋谷〜御茶ノ水)を利用してのんびり帰ったりしていた。

また、浪人中に原付免許をとってからは、スクーターで通うこともあった。水道橋付近でスピード違反でつかまったことがある。

ただ、そのころの私にとって「神保町」と「秋葉原」はまったく別の興味対象であったため、地理的にはきわめて近いにも関わらず、両方を同じ日に散策したことはあまりない。今はたいていどちらの町もはしごしているのに。

私の中で、「神保町」と「秋葉原」が統合されたのは大学生になってからである。それはまた次の機会に(まあ答えは単純明快だけど)。

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神保町物語4

神保町物語3の続き。

高校一年、二年と遊び倒したが、三年になって一応受験を意識し、駿台の現役生向け夜間講習に参加することにした。が、講習会場が大好きな神保町に近いため、古本屋や喫茶店に行くために通っているようなものだった。

とりあえずあちこちで中古の参考書や問題集を買いあさったが、読んだのはその十分の一ぐらい。かといってまともな読書をしたわけでもなく、一番読んだのはサンデーとビッグコミックスピリッツだった。「うる星やつら」と「めぞん一刻館」が連載されていたからころだ。

結局どこの大学にも受からず、浪人することになった。また駿台に通っても遊んでしまうことが予想できたので、今度は代ゼミに通うことにした。でも模試会場が明大だったり、駿台の模試も受けたりしたから、月1〜2回は神保町に通った。

神保町界隈で腹が減ったときには、「たつ屋」(今は神保町付近には店がない)の牛丼とか、「利根そば」(今でもある。昔は名前が違ったかも)の天ぷら蕎麦を良く食べていた。御茶ノ水駅近聖橋口の立ち食い蕎麦屋(今もある)とか、前回書いた御茶ノ水「ニューポート」入り口付近(ちょっとずれているかもしれない)にあった立ち食い蕎麦屋(今はない)も愛用していた。特に後者は、そのころとしてはめずらしく関西風出汁の立ち食い蕎麦で、最初は違和感を覚えたが、食べているうちに大好きになった。

神田の「やぶそば」は、なんとなく敷居が高くて当時は入れなかったが、「まつや」には入ったことある。なぜ山葵が付いていないんだ、と質問して恥をかいたことを覚えている。

神保町の話なのか、蕎麦屋の話なのかわからなくなってしまった。そもそも神保町や古本屋の雰囲気は大好きなのだが、けっして「書籍」自体に興味があるわけではないので、希少本や珍本を買ったことはない。古本屋にはいる目的は、単に本を眺めるためか、安い古本を買うだめだった。今でもそうだ。たぶんこれからも・・・

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神保町物語3

神保町物語2の続き。

三鷹市と武蔵野市の境にある高校に入学した。それだけでほぼ特定できてしまうと思うが、もっとヒントを言えば「集中治療室」高校だ。

今どうなってるのかは知らないが、当時はまだ設立されたばかりで、教師も皆若く、何をやっても許されるような雰囲気だった。だから遊びまくった。もっとも中学生のときも、社会人になってからも、結局ずっと遊んでいる人生なので、別に高校の校風とは関係なかったのかもしれない。

三鷹や吉祥寺、中央線沿線が主な遊び場だったが、神保町へも月に一回程度は通っていた。今は亡きレモンの喫茶店でデートしたこともある。アングルが愛読雑誌だったので、喫茶店は大好きだった。神保町の白十字(まだ健在)とか、御茶ノ水のニューポート(大分前に閉店した)とかに出入りしていた。今思うと、なぜそんな小遣いがあったのかが分からない。親からもらうしかなかったはずなんだが。

あと、当然のことながら色気づいて、芳賀書店(もとは左翼系出版社だったらしいが、そのころはもう今の形態だった)も覗いてみた。現在の神保町にはその類のビデオ、DVD屋が乱立しているが、そのころは数軒しかなかったと思う。

もちろん、そんな店だけではなく、まともな本屋や古本屋も愛用していた。一番好きだったのは「山田書店」で、当時としては珍しく新古本というか定価を無視した新刊本を買うことができた。英語は読めなかったが(今でもたいして読めないが)、「北沢書店」の雰囲気も好きだった。

書泉グランデには、なぜか革マルや中核の機関紙がおいてあった(今では他の書店にもあるようだ)。書泉ブックマートの漫画フロアは大きかった。いまほど漫画やアニメが市民権を得ていない時代だったのに・・・

いろいろ書き連ねていくときりがないので、次はまたの機会に。

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