究極の傍観者

歴史、文学、宗教など人文科学系情報を中心にしようとは思っていますが、それ以外のことも書きます。人間のすることはみんなどっかでつながっていますから。記事内容に関するコメントやトラックバックはご自由にどうぞ。

文学

歌舞伎座初日見物

夜の部鑑賞。

山科閑居と踊り(乗合船恵方萬歳)はよかった。が、最後の東慶寺花だよりはちょっと・・・ 面白いことは面白いが歌舞伎としてやる演目ではない。松竹新喜劇でやるべきだ。登場人物が善人だけというのが歌舞伎的ではない。もっと毒がないとw

ヰタ・セクスアリスと「食欲」

森鴎外(鷗外)のヰタ・セクスアリスは「性欲的生活」という意味らしいが、ポルノグラフィーではないから、「性欲」を刺激するためには使えない。中学生の頃裏切られたことがあるw

が、「食欲」を刺激するためには利用可能だ。特に江戸、東京風の和食好きなら楽しめるはず。もっとも明治期の文学や落語はほどんどそうだがw

というわけで、「食」の観点で気に入った箇所をご紹介。

まずは「蕎麦」。
講釈に厭きて落語を聞く。落語に厭きて女義太夫をも聞く。寄席の帰りに腹が減って蕎麦そば屋に這入ると、妓夫が夜鷹を大勢連れて来ていて、僕等はその百鬼夜行の姿をランプの下に見て、覚えず戦慄したこともある。

お次は「鰻」。
僕はお父様に連れられて鰻屋へ一度行って、鰻飯を食ったことしか無い。古賀がいくらだけ焼けと金で誂えるのに先ず驚いたのであったが、その食いようを見て更に驚いた。串を抜く。大きな切を箸で折り曲げて一口に頬張る。

最後は「料理屋」。
僕はそれまで蕎麦屋や牛肉屋には行ったことがあるが、お父様に連れられて、飯を食いに王子の扇屋に這入った外、御料理という看板の掛かっている家へ這入ったことがないのだから、非道く驚いた。


王子の扇屋には一回ぐらいいってみたいな、こちらは落語(王子の狐)で有名だ・・・

「民主主義」と「郊外」

坂口安吾の「居酒屋の聖人」というエッセイに、次のような一節がある。

トンパチ屋の常連は、近所の百姓と工場の労務者達であつたが、百姓の酔態といふものは僕の想像を絶してゐた。僕自身もさうであるが、東京のオデンヤの酔つ払ひといふものは、各々自分の職域に於て気焔をあげるものである。ところが、百姓達は、俺のうちの茄子は隣の茄子より立派だとか、俺は日本一のジャガ芋作りだとか、決して、かういふ自慢話はしないのである。自分の職域に関する気焔は一切あげない。さうして、酔つ払ふと、まづ腕をまくりあげ、近衛をよんでこい、とか、総理大臣は何をしとる、とか、俺を総理大臣にしてみろ、とか、大概言ふことが極つてゐる、忽ち三人ぐらゐ総理大臣が出来上つて、各々当るべからざる気焔をあげ、政策が衝突して立廻りに及んだり、和睦して協力内閣が出来上つたり、とにかくトンパチ屋といふものは議会の食堂みたいなものだ。

なんとなく想像できる。「工場の労務者達」はちゃんと女や博打の話で盛り上がっているのだろう。

おそらく関係あると思うのだが、ネット、特に2ちゃんねるとかtwitterを眺めてると、「なんで若いのに『民主主義とか選挙』になんて興味を持つの? 遊びとか勉強とか仕事とかいろいろあるだろう?」と感じることがある。もちろん彼らの多くは農民ではないのだろうが、おそらく都会人ではない。都会人で政治に興味があるのなら、「革命とかテロ」を目指すはずだから。違うかw

ところで、大阪は本来一番の都会のはずなのに、最近は動きが変だ。東京はもっと前から変だから、すでに「都会」なんてもうどこにもないのかも。日本全国どこでも「郊外」なんだよね・・・

放射能と花柳病(濹東綺譚より)

青空文庫で「濹東綺譚」を読んでいたら、面白い記述が見つかった。

「この辺は井戸か水道か。」とわたくしは茶を飲む前に何気なく尋ねた。井戸の水だと答えたら、茶は飲む振りをして置く用意である。
 わたくしは花柳病よりも寧チブスのような伝染病を恐れている。肉体的よりも夙くから精神的廢人になったわたくしの身には、花柳病の如き病勢の緩慢なものは、老後の今日、さして気にはならない。

まだエイズがない時代だから、「花柳病」とは梅毒のことだろう。梅毒も感染してからヤバくなるまでには相当時間がかかる。どうせ先があまりない老人が恐れてもしかたない。なるほどね・・・ もっともそもそも「ヤラなければ」絶対大丈夫なのにこう書いているということは、永井荷風先生はお元気らしいw

梅毒はともかく、私も放射能はあまり怖くない。理由は同じ。年寄りにはどうせ関係ない。癌になる可能性が数%、いや50%増えたとしても誤差範囲だ。それより経済クラッシュが心配だが、世の中の多くの人が、「経済なんていくら悪化してもいいから原発がなくなってほしい」と思ってるようだ。まあ若い人たちがそう望むなら年寄りがどうこう言っても始まらないか・・・

濹東綺譚って映画にもなってるんだ。今度見てみよう。


女衒の話

GOSICKVIII神々の黄昏(下)の登場人物中、私が一番好きなのは女衒だ。クリスチャンで、元神学生で、兵役に付くのがいやだから女衒になったという変わり者である。オカマっぽい。おそらく女性に興味はない。だからヴィクトリカの純潔が守られたのかも・・・ 元神学生だから多少フランス語がわかるという設定もいい。おそらく住所は神戸か横浜だろうが、作者もそこまでは考えてないかなw

女衒は女性を商品として扱うのだから、「自分で手を出してはいけない」ような気もするが、実際は微妙らしい。井伏鱒二の「駅前旅館」には、東北から少女をかどわかしてきて上野の旅館でXX、のような記述がある。処女をいきなり店に出すわけにはいかないからだろう・・・

坂口安吾の「黒谷村」にも女衒が出てくる。こっちはもう充分熟れている女性が相手だから、女衒も手を出すことはないらしい。こんな一節がある。
「いいえ、ずつと昔からですわ。でも、ほんとうに決めたのはたつた今しがたなんですわ。村に女衒が来てゐるのです。三月と盆は女衒の書き入れ時ですから。妾はずつと昔にも一度女衒に連れられて村を出たことがありました。お分りですか? 凡太さん……妾は今も女衒と一緒に寝てきました。あははははは……嘘嘘嘘、一緒に酒をのんできただけ……」

GOSICKの話に戻る。女衒がヴィクトリカの刺青に気づいたときの、「これじゃ商品価値なんて・・・」というセリフはちょっと変だ。確かにそんなのはイヤだという男性のほうが多いのかもしれないが、「日本語の刺青をした銀髪の美少女」に萌える変態もそれなりにいるはず(別に私のことではないよw)。少なくとも見世物小屋に売り飛ばすことは可能だ。おそらく女衒はヴィクトリカの気高さとか崇高さを感じたからこそ逃がしてやったので、「刺青」のあるなしは本当は関係なかったのだろう。

「港町の女の見世物」というと、葉山嘉樹の「淫賣婦」を思い出す。相当気持ちが悪い小説(プロレタリア文学)だが、もしもGOSICKにバッドエンドがあるとすれば、こんなラストになるのかも・・・

 私はビール箱の衝立(ついたて)の向うへ行った。そこに彼女は以前のようにして臥(ね)ていた。
 今は彼女の体の上には浴衣(ゆかた)がかけてあった。彼女は眠ってるのだろう。眼を閉じていた。
 私は淫売婦の代りに殉教者を見た。
 彼女は、被搾取階級の一切の運命を象徴しているように見えた。
 私は眼に涙が一杯溜った。私は音のしないようにソーッと歩いて、扉の所に立っていた蛞蝓(なめくじ)へ、一円渡した。渡す時に私は蛞蝓の萎(しな)びた手を力一杯握りしめた。
 そして表へ出た。階段の第一段を下るとき、溜っていた涙が私の眼から、ポトリとこぼれた。

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