私は世田谷区桜新町生まれ、父も母も世田谷生まれだから、わりと昔の世田谷のことは知っているつもりだ。子供のころにはあちこちに畑があたし、近所にちょっとした森もあった。しかし戦前の世田谷の様子のことまでは知らない。

坂口安吾の「風と光と二十の私と」を読むと、昔の世田谷がどれだけ田舎だったがよくわかる。こんな一節がある。

”私が代用教員をしたところは、世田ヶ谷の下北沢というところで、その頃は荏原(えばら)郡と云い、まったくの武蔵野で、私が教員をやめてから、小田急ができて、ひらけたので、そのころは竹藪だらけであった。本校は世田ヶ谷の町役場の隣にあるが、私のはその分校で、教室が三つしかない。学校の前にアワシマサマというお灸(きゅう)だかの有名な寺があり・・・”

ここでいう「分校」とは現在の「世田谷区立代沢小学校」のことらしい。茶沢通りの中間ぐらいのところだ。茶沢通りはともかく、他の道は狭く曲がりくねっている。これが世田谷、杉並、練馬の特徴(目黒も仲間だ)であることはすでに書いた。

戦後賑わうようになった下北沢だが、最近は・・・ 昔は若者の街だったのに、今では「昔は若者だったおじさん、おばさん」の街になってしまった。駅の改良工事が終わるころには、チェーン店だらけの日本中どこにでもあるような街になってしまうかもしれない。もっとはやく小田急改良を進めて、便利さと面白さを両立させた街づくりが20年前にできていれば・・・ 地主や住民がわがままを言わなければ十分可能だっただろうに・・・ まあ、あまり悪口をいうと村八分になるかもしれないから、ここらへんでやめておこうw

最後に、世田谷とは関係ないが、この「風と光と二十の私と」の中で一番好きな一節を引用。ここが好きと言ってしまうと、また「東京人死ね!」って言われそうだが・・・

”農村にもこの傾向があって、都会の人間は悪い、彼等は常に悪いことをしている、だから俺たちだって少しぐらいはと考えて、実は都会の人よりも悪どいことを行う。”